
『カバン』
押入れの奥のどこかに、少しカビ臭くなった古い学生カバンがしまってある。 五年前、今の住まいに引越してくる時、多くの荷物を処分する中で、そのカバンだけは迷うことなく 「はい、これはこっち!」 と引越しの荷物の方に入れた。
引越しの日以来、手にとって見たことがないので、どこかにあるはず・・・ という認識だが、その存在を忘れたことはない。 そういった意味では 『押入れのどこかに』と言うよりも、今では 『心の片隅に』 と言う方がふさわしいかもしれない。 心の片隅に在るので、いつでも取り出して見ることができる とも言える。
そのカバンの中には、高校の卒業文集と、友人や恩師からのメッセージが書かれたノートが入っている。 当時は、革の学生カバンのマチをつぶせるだけつぶし、ペッタンコにして持つのが流行っていて、例に洩れず私もそうしてカッコつけて持ったものだった。 教科書もほんの数冊しか入らないようなペッタンコ振りだが、今、私の心の片隅に在るこのカバンはマチを最大限に広げて、当時の想い出と、そこに共に有った私の思いをいっぱい詰めこんでいる。
自分とも他人とも闘いながら、泣いたり笑ったり、悩んだり苦しんだり・・・そしてそれらを糧にして大きく成長させてもらったあの頃の証しを、今、そこに見ることができる事が尚嬉しい。
さて、我が家のタンスの引出しにもう一つ、想い出のカバンがしまってある。 めぐみに通う息子にと、二十五年前に私が手作りした通園カバンだ。 めぐみの通園バッグは、創立当初から母親の手作りを原則とし、寸法も決まっていて、今も同じ規格で変わらない。 あまり親切とは言い難い型紙を頼りに、悪戦苦闘してやっとの思いで仕上げたことを思い出す。
キルティング布で作ったそのカバンは、底の四隅が擦れて穴が開いている所もあるが、年期物の風格さえ感じさせる。 息子の物なのに何故か今では私の宝物として置いてある。 中身は空っぽ。 何も入っていないのに、これもまたパンパンに膨らむほど、見えない 『何か』 が入っていて、私はそれを目にする度、自分の心に向けて 『何か』 を確認している気がする。
息子も小学校の間は私と同じ様に、このカバンを見ては 『何か』 を確認している姿があった。 この 『何か』 が、息子と私、同じものであるかどうか…確かめた事がないので分からないが、敢えて言うなら、それぞれにとっての 『めぐみの心』 だろうと思う。 入園したての花組さんの新しいカバンは,、大きく見えるのに軽そうだ。 そして、その傍らでお世話をする光組さんのカバンは、小さく見えるが、重みが感じられる。 光組さんは既に、カバンの中に見えない 『何か』 を詰め始めているのだろう。 沢山の事柄や人々との関わりの中で、子ども達のカバンの中に、『何か』 を一つ、また一つと、ゆっくり増やしていって欲しいと願う。
さて、おとなになった私の息子は、 『何か』 を確認する為にこのカバンを見ることは無くなった。 息子にとってめぐみの通園カバンは、わざわざ取り出して見なくても、心の片隅にちゃんと在って、 その 『何か』 は、確かめなくとも当然のものになっているような気がする。
園 長 木村 厚美
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