めぐみ幼稚園からのお便りやお勉強会、園長先生からの一言日記などもりだくさんの内容でお届けしていきます。
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Author:めぐみ幼稚園
山口県下関市の由緒ある幼稚園「めぐみ幼稚園」では、恵まれた環境の中で子供たちの個を大切にした保育を行っています。お気軽に保育見学へお越しください。

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『善に向かって』


園庭の樹木の実が食べごろを過ぎて、いよいよ秋は深まってきた。

運動会からもう三週間が経とうとしているのに、あの日得た喜びを確かめるかのように、昼休みの第一運動場では相変わらず跳び箱や鉄棒にいそしむ子ども達の姿が見られる。
運動会後しばらく続いた秋晴れの天気は、そうして余韻を楽しめるようにと、神様がくださった粋なプレゼントに違いないとまで思えてしまう。
運動会で披露した技を何度も何度も繰り返す子、次の目標に向かってチャレンジを始めている子など、運動会の実が心にしっかりと熟して「今が食べ頃ですょ!」と自慢げに胸を張って自分の存在をアピールしている。

跳び箱の踏切板の音が心なしか力強く聞こえるのは気のせいだろうか? 
勝った負けたという事よりも、自分の力を精いっぱい使うことを大切に考えるめぐみの運動会の目標を、子ども達は心で感じ 体で体験して喜びを得たに違いない。
善に向かって歩み続けているというその自信が踏切板の音に表れているように思う。

例年運動会の後に見るこの光景を今年も見ることができて、(譬えは変だが)ふぐのコースを食べた後、最後にそのだしで雑炊を食べた時の満足感の様なものを感じて一人ほくそえむ。

子ども達の運動会の実に、もう一つ別の熟し方があることを知った。
それは運動会が終わって三日目、光組の聖話の時間に『幼児祝福式でどんなことを祈って欲しいですか?』という問いを子ども達に投げかけた時の事。
滅多に手を挙げて発言しない早良ちゃんが真っ直ぐに手を挙げて
「私は荷物を持つ力はあるけど、運動会の鉄棒で時計回りをする力がありませんでした。愛組の時にはできてたのに、頑張らなくなったので できなくなりました。また頑張る力が欲しいです。」
と、迷いなくしっかりとした口調で発言した。

確かに去年の彼女は自分の課題に本気で取り組み、運動会ではキラキラと輝いていたのだが、光組になってからその輝きがだんだん翳り、運動会に向けて誰が何と言っても課題に向かえなかった。それでも当日は、精いっぱい力を使う友達の姿を目の当たりにし、そして、その姿にたくさんの人達が心からの声援と拍手を送っている光景に心動かされたのか、何度も失敗しながらも自分の力を精いっぱい使おうと頑張っていた。
が・・・やはり時計回りはできなかった。
悔しそうでも恥ずかしそうでもなく淡々といつもの風を装ってはいたが、あの瞬間何かを掴み、善に向かう所に立ち返ったのだと私は思っている。

早良ちゃんは、課題に一生懸命取り組んで善に向かって歩んでいた去年の自分を忘れてはいなかった。
そしてキラキラ輝いていた自分をもう一度取り戻したいと自分で気付き自分で歩み出そうとしている。

子どもの内には善に憧れ 善に向かって生きたいと願う強い欲求が必ず在る。
時にその灯がくすぶることがあっても、決して消えることはないのだということを私達おとなは確信し、祈って待つ謙虚さを持たなければならないと思う。

                                
                                     園 長  木 村  厚 美


『共に喜ぶ』

二学期がスタートしてからずっと晴天に恵まれ、職員室の窓からは毎日のように運動会の練習を見ることができた。

どこかのクラスが登園後すぐに体操・・・というこの時期、朝の下駄箱周辺は毎日にぎやかだ。
大工室へと急いでいる時にそれに行き合うおうものなら子ども達が容赦なく声をかけてきて、できるようになった事を懇切丁寧に話してくれる。
「時計回りができたんよ!」「跳び箱五段跳べたんよ!」等と、次々に言い寄られると、『勘弁して下さ〜い!』と逃げたくなることもあるが、背伸びして得意満面で訴えかけてくるのでついつい聴き入ってしまう。

中には自分の事ではなく友達の事で「○○ちゃんが、尻上がりができるようになったんよ〜!」と自分の事以上に喜び、目を見開いて興奮して機関銃のように話してくれる子もいる。
子ども達だけでなく、それに輪をかけて凄いのが教師達だ。
昼食後の遊び時間にも子ども達は鉄棒や跳び箱の練習に余念がなく、教師達はその傍らで援助している。その時間私は職員室で昼食を摂っているのだが、教師の、悲鳴のような歓喜の叫び声が運動場に響き渡るのに驚かされ、口から物を吹き出しそうになったことがある。

「できた!できたぁ!凄い!凄〜い!できたやん!ののちゃん!」。
『…ん?小川先生のあんな声聞いたことないわぁ、ののチャンが空中三回転でもしたか?』と興味津々窓の外を覗くと、ののちゃんは小川先生のその反応にびっくりしてポカ〜ンとしていた。
が、次の瞬間抱きついてきた小川先生に気恥ずかしそうに笑みをこぼし、喜びを分かち合っていた。小川先生の喜び様はもの凄かった。 

子どもと教師がどんなプロセスでその喜びの瞬間を迎えたのかをつぶさに見て知っている訳ではないが、その道のりの険しかっただろう事、そして共に歩み乗り越えてきただろう事を感じ取るのに、その一シーンを見るだけで十分だ。 

子どもが自分の課題を乗り越えようとあきらめないで努力できるのは、気持ちに寄り添って一緒にその時を過ごしてくれる人がそばに居るからだ。
そして子どもは、こうして一緒に乗り越えてくれた人が自分の事を心から喜んでくれた時に、新たな課題に向かって踏み出す力を得ることができる。その後も ののちゃんは雄々しく次の段階にチャレンジしたという。

残念ながら、運動会を目指して泣いたり笑ったり、歯を食いしばって頑張っている子ども達の姿を、ご家族の皆さんにお見せすることはできない。
しかし、どんなことでもいい、お子さんが乗り越えようとしている課題をアウトサイドで観覧するのでなく、いつも深い祈りを持って寄り添い、心の支えとなってくださっていれば、運動会の一シーンからでも様々な事を感じ取ることができ、喜びを共有することができると思う。
是非そうあって欲しいと願ってやまない。

運動会を皮きりに二学期は行事が目白押しだ。
私たち教師も子ども達と共に喜びを分かち合うために、いつも子どもの心と共に居たいと思う。
 
                                        園長 木村厚美
『サルスベリの花』
 
 この夏休みに、長い間会っていなかった旧友が広島の実家に帰省する途中、めぐみ幼稚園を見たいと、わざわざ下関に立ち寄ってくれた。
めぐみの保育理念やシステムを熱く語りながら園舎をひと通り案内し、友人はめぐみ幼稚園のこと、そして私がこの幼稚園に誇りを持っていることを喜んでくれて嬉しかった。

帰り際、東園庭のサルスベリの樹の前で私達の足は止まってしまった。
真っ白な夏の雲が浮かぶ青い空に向かって誇らしげに咲いているサルスベリの花を見て、『綺麗やねぇ』と言葉を交わすところだろうが、私達は目を伏せ、しばし沈黙した。
一瞬クサリ山からの蝉の声が激しくなったかのように背中で感じながら、その時、友人も私も心の中で同じことを思い、無言の内に会話をしていた。
今から三十数年前、同じ様に真夏の空の下に咲くサルスベリの花を見て、彼女が「この花嫌いなんョ…」と話してくれた、その時の事を思いながら…。

そして数秒経って彼女が、「きれいな花を見て、いやな事を思い出すって、哀しいねぇ…」と、重たい沈黙を破ってくれた。私は「そうやねェ…」としか言えなかった。

 彼女のご両親は原爆体験者で心に重い傷を受けておられる。
詳しい事情まで訊いたことはないが、その体験がご両親のその後の人生に大きく影響したことは確かだろう。
『「サルスベリの花を見ると、あの(忌まわしい)夏の日を思い出して辛い…」と漏らした母のその一言が、幼かった自分の心に小さな傷を残した…』と彼女は言う。
その時から、サルスベリの花は彼女にとっても忌まわしいものとなってしまったのだ。
若い日にその告白を聴いた私も、この花を見るたび複雑な思いに駆られていたが、幼稚園の庭にこの花が咲くようになってからは、その前で平和を祈ることができるようになり、今では私にとって大切な花となった。
 
 彼女は私と同い年なので戦争の体験はない。
しかし、彼女は自分の中にも少なからず戦争の爪あとが在ることを自覚している。
ご両親の受けた傷は、日常の些細な事柄の中にも時折姿を見せたのだろう。その傷の痛みをかたわらで感じながら、彼女もまた、自分の心の中でご両親の体験とは異なる、小さな戦争を体験していたのかもしれない。

 戦火をくぐり抜けてきためぐみ幼稚園の二つの園舎、ここでは昔からずっと平和が語られ、今も子ども達に向けて語り継がれている。友人が喜んでくれたのはこのことだったに違いない。
彼女との再会で、この夏休み私は今一度『平和とは何か』を子ども達にどう伝えていくのかを問われ、責任の重さをずしりと感じた。

 園児募集の季節になった。
説明会に来られる親御さんの前で先ず、「めぐみ幼稚園の教育をひと言で言うならば、『平和教育』です。めぐみ幼稚園は、平和を愛し、平和を創り出していく者に成るための、土台づくりをする幼稚園です。」と熱を込め声を大にして語るだろう。
そう語った言葉に命が宿るように、保育の全てにおいて心を尽くしていきたいと思う。                         
                              
                                     園 長 木村 厚美



                
『空想の中の真実』


朝の登園バスのルートで、必ずと言ってよいほど毎回長い信号待ちを食わされる所がある。
そこを止まらずに抜けることはほとんど無く、短くて三分、どうかすると五分かかることもある。

その間数百メートルの風景を、子ども達と運転士さんと私とで共有し、しばし空想に遊ぶことが日課となっている。
バスが信号待ちでスピードを落とし始めると、その右前方にサンデンバスの停留所が見えてくる。
そこには数人のいつものメンバーが、いつものようにバスを待って立っている。

その中に一人、私達が『ラニエロさん』、と勝手に名付けたおじさんがいる。
見かけはちょっと怖そうでヤクザ映画の親分の様だが、子ども達が手を振ると、それに応えて手を振り返してくれる笑顔がびっくりするほど善人顔になるのが私達の心を捉えた。

そのラニエロさん、数日に一回しか現れなかったのに、ある時、連日現れた事があった。
すると子ども達は口々に…
「車が壊れて修理に出したんやろゥ」
「車で行くのやめにしたんやろ、ガソリン高いケェ」などと想像逞しく物語る。

数日して、ラニエロさんがバス停に現れなくなると、
「もう、車なおったから今日は車で行ったんよ」と誰かが言えば、
「どこかに出張やろ きっと…」と片方では新説が飛ぶ。
まったく大きなお世話だ。

更にもっと笑えるのは、左手に見える「加藤たばこ店」のおじさんについての話。
店の外にある自動販売機を開けて煙草を補充している姿を見て、子ども達は興味を持ち始めた。
週に一回見かけるかどうかだが、必ずくわえ煙草しているのを見て、
「タバコャさんやヶ タバコが好きなんやろ」と誰かが言うと、
「…やから売りたくないんやろ」。
それを受けてまた誰かが「売れんから自分で吸っとるんやろ」
(彼らはお客が来ているところを見た事がないので)

私と運転士さんはその屈託のない会話を聞きながら笑ってはいるが、「参ったなあ!」と感心してしまう。
 
これらの空想の会話に信憑性などないが、時として子どもの想像や空想の言葉の中に、『あるかもねえ…』『あると思います!』と言いたくなるような真実を見ることがある。
恐るべし子ども達! おとなの傍で見聞きした事と、自分の体験で得た情報とを関連付けて、想像の中で実に適切な判断や結論を出せるのだ。
 
人は誰しも日常の中で色々なことを想像、想定しながら、選び、決定し、決断して実行している。だから、想像力が豊かであるほど確実なものを手にすることができ、その有無によっては人生も大きく変わるかもしれない。
想像力の豊かさは、幼い時にどのくらい五感を使った体験をしてきたかに比例する。そして、何を体験したかよりも、どのように体験し、感じたかが大切だと思う。

さて夏休みが始まります。普段できない事の中にも、日々の淡々とした生活の中にも子どもの五感を育てる教材は転がっています。その体験を意識的に感じながら、時に子どもと空想の世界に遊んで、愉しい日々となることを祈っています。       
                           
                              園長   木村 厚美



『お箸の持ち方』

 今から数年前に、卒園児 Yちゃんと二人でシーモールの食堂街で食事をしたことがある。当時Yちゃんは中学二年生で、まだまだ幼さを残しながらも、確実におとなへの歩みが始まっていたが、どちらかと言うとベビーフェイスの彼女が、瞬間おとなになったり子どもになったりする様子は、何とも可愛らしかった。

ところが、お料理が運ばれてきて いざ食べ始めると、彼女の箸さばき、お作法たるや、その辺の若いお姉様方が及ばない程美しく、一緒に食べているのが中学生だという事を忘れてしまいそうなくらいだった。
食べたのは 京都のおばんざいミニ懐石で、小さなお皿に乗ったおばんざいが幾皿も、大きな盆に並べられて出てきた。
少々食べにくい物も何品か有ったのだが、最後の一片、最後の一粒を口に運ぶYちゃんのその箸さばきには、思わず見とれてしまった。

『お母さんの勉強会』で、お箸の持ち方についての質問をよく受ける。
「持ちたがる時が教え時と思って与えてみたのですが、ちゃんと持てないんです。まだ持たさない方がいいでしょうか・・・?」。
この質問に対して私はいつも、う〜ん・・・とうなってしまい、スマートに答えることができない。
方法論を持ち合わせてない訳ではないが、私がその質問に答えることを躊躇してしまうのは、『それは既に遅しだよー お母さん!』と、思ってしまうからだ。

これは私の持論だが、箸を上手に美しく使えるようになる為には、生活の様々な場面で、体の使い方の訓練が成されていなければ難しい。
箸を持つ事に興味を持ち始めるまでに、それを訓練されてさえいれば、箸に興味を持つと同時に自然に上手く箸を使えるようになる筈だ…と私は思っている。

昔に比べて年々箸さばきの不器用な子どもが目立つ事が、文明の利器に頼って文化が廃れるという象徴に思えてならない。
障子やふすまの開け閉めや、物の持ち方運び方 立ち居振る舞い全て、美しい所作の動きには決まりがあって、しかも美しく見せるだけでなく、人に対しても物に対しても丁寧で優しい動きだったし、その繰り返しが子どもの体と心を細かい所まで発達させてきたと思う。

近年こうした美しい所作を、おとなの姿に観て学ぶ機会が少なく、文明の利器が取って代わって子どもが体験する機会も減っているのだから、勉強会でのこの種の質問は、今後も増えるに違いないと思ってしまう。

前述の卒園児Yちゃんの家庭と、彼女自身の日常のあり方が嬉しく目に浮かぶ。
彼女にはきっと、美しい所作を後ろ姿で教えてくれるおとなが、いつも傍らに居てくれているに違いない。Yちゃんにとってこれは宝であり、何よりも素敵な花嫁道具となることだろう。

箸の持ち方は、一度身に着くとなかなか修正が難しい。
そしてほとんどの子どもがそれを幼児期に体験する。こんなに早い時期に『すでに遅し!』という結果になってしまう事柄はまだまだ他に沢山ある。
そして そこでのおとなの責任は大きい。
子ども達に、心と体を喜んで使えるような日常を提供したいと切に思う。
                                        園 長  木 村 厚 美
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