めぐみ幼稚園からのお便りやお勉強会、園長先生からの一言日記などもりだくさんの内容でお届けしていきます。
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Author:めぐみ幼稚園
山口県下関市の由緒ある幼稚園「めぐみ幼稚園」では、恵まれた環境の中で子供たちの個を大切にした保育を行っています。お気軽に保育見学へお越しください。

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『空想の中の真実』


朝の登園バスのルートで、必ずと言ってよいほど毎回長い信号待ちを食わされる所がある。
そこを止まらずに抜けることはほとんど無く、短くて三分、どうかすると五分かかることもある。

その間数百メートルの風景を、子ども達と運転士さんと私とで共有し、しばし空想に遊ぶことが日課となっている。
バスが信号待ちでスピードを落とし始めると、その右前方にサンデンバスの停留所が見えてくる。
そこには数人のいつものメンバーが、いつものようにバスを待って立っている。

その中に一人、私達が『ラニエロさん』、と勝手に名付けたおじさんがいる。
見かけはちょっと怖そうでヤクザ映画の親分の様だが、子ども達が手を振ると、それに応えて手を振り返してくれる笑顔がびっくりするほど善人顔になるのが私達の心を捉えた。

そのラニエロさん、数日に一回しか現れなかったのに、ある時、連日現れた事があった。
すると子ども達は口々に…
「車が壊れて修理に出したんやろゥ」
「車で行くのやめにしたんやろ、ガソリン高いケェ」などと想像逞しく物語る。

数日して、ラニエロさんがバス停に現れなくなると、
「もう、車なおったから今日は車で行ったんよ」と誰かが言えば、
「どこかに出張やろ きっと…」と片方では新説が飛ぶ。
まったく大きなお世話だ。

更にもっと笑えるのは、左手に見える「加藤たばこ店」のおじさんについての話。
店の外にある自動販売機を開けて煙草を補充している姿を見て、子ども達は興味を持ち始めた。
週に一回見かけるかどうかだが、必ずくわえ煙草しているのを見て、
「タバコャさんやヶ タバコが好きなんやろ」と誰かが言うと、
「…やから売りたくないんやろ」。
それを受けてまた誰かが「売れんから自分で吸っとるんやろ」
(彼らはお客が来ているところを見た事がないので)

私と運転士さんはその屈託のない会話を聞きながら笑ってはいるが、「参ったなあ!」と感心してしまう。
 
これらの空想の会話に信憑性などないが、時として子どもの想像や空想の言葉の中に、『あるかもねえ…』『あると思います!』と言いたくなるような真実を見ることがある。
恐るべし子ども達! おとなの傍で見聞きした事と、自分の体験で得た情報とを関連付けて、想像の中で実に適切な判断や結論を出せるのだ。
 
人は誰しも日常の中で色々なことを想像、想定しながら、選び、決定し、決断して実行している。だから、想像力が豊かであるほど確実なものを手にすることができ、その有無によっては人生も大きく変わるかもしれない。
想像力の豊かさは、幼い時にどのくらい五感を使った体験をしてきたかに比例する。そして、何を体験したかよりも、どのように体験し、感じたかが大切だと思う。

さて夏休みが始まります。普段できない事の中にも、日々の淡々とした生活の中にも子どもの五感を育てる教材は転がっています。その体験を意識的に感じながら、時に子どもと空想の世界に遊んで、愉しい日々となることを祈っています。       
                           
                              園長   木村 厚美



『お箸の持ち方』

 今から数年前に、卒園児 Yちゃんと二人でシーモールの食堂街で食事をしたことがある。当時Yちゃんは中学二年生で、まだまだ幼さを残しながらも、確実におとなへの歩みが始まっていたが、どちらかと言うとベビーフェイスの彼女が、瞬間おとなになったり子どもになったりする様子は、何とも可愛らしかった。

ところが、お料理が運ばれてきて いざ食べ始めると、彼女の箸さばき、お作法たるや、その辺の若いお姉様方が及ばない程美しく、一緒に食べているのが中学生だという事を忘れてしまいそうなくらいだった。
食べたのは 京都のおばんざいミニ懐石で、小さなお皿に乗ったおばんざいが幾皿も、大きな盆に並べられて出てきた。
少々食べにくい物も何品か有ったのだが、最後の一片、最後の一粒を口に運ぶYちゃんのその箸さばきには、思わず見とれてしまった。

『お母さんの勉強会』で、お箸の持ち方についての質問をよく受ける。
「持ちたがる時が教え時と思って与えてみたのですが、ちゃんと持てないんです。まだ持たさない方がいいでしょうか・・・?」。
この質問に対して私はいつも、う〜ん・・・とうなってしまい、スマートに答えることができない。
方法論を持ち合わせてない訳ではないが、私がその質問に答えることを躊躇してしまうのは、『それは既に遅しだよー お母さん!』と、思ってしまうからだ。

これは私の持論だが、箸を上手に美しく使えるようになる為には、生活の様々な場面で、体の使い方の訓練が成されていなければ難しい。
箸を持つ事に興味を持ち始めるまでに、それを訓練されてさえいれば、箸に興味を持つと同時に自然に上手く箸を使えるようになる筈だ…と私は思っている。

昔に比べて年々箸さばきの不器用な子どもが目立つ事が、文明の利器に頼って文化が廃れるという象徴に思えてならない。
障子やふすまの開け閉めや、物の持ち方運び方 立ち居振る舞い全て、美しい所作の動きには決まりがあって、しかも美しく見せるだけでなく、人に対しても物に対しても丁寧で優しい動きだったし、その繰り返しが子どもの体と心を細かい所まで発達させてきたと思う。

近年こうした美しい所作を、おとなの姿に観て学ぶ機会が少なく、文明の利器が取って代わって子どもが体験する機会も減っているのだから、勉強会でのこの種の質問は、今後も増えるに違いないと思ってしまう。

前述の卒園児Yちゃんの家庭と、彼女自身の日常のあり方が嬉しく目に浮かぶ。
彼女にはきっと、美しい所作を後ろ姿で教えてくれるおとなが、いつも傍らに居てくれているに違いない。Yちゃんにとってこれは宝であり、何よりも素敵な花嫁道具となることだろう。

箸の持ち方は、一度身に着くとなかなか修正が難しい。
そしてほとんどの子どもがそれを幼児期に体験する。こんなに早い時期に『すでに遅し!』という結果になってしまう事柄はまだまだ他に沢山ある。
そして そこでのおとなの責任は大きい。
子ども達に、心と体を喜んで使えるような日常を提供したいと切に思う。
                                        園 長  木 村 厚 美
『カバン』 

 
 押入れの奥のどこかに、少しカビ臭くなった古い学生カバンがしまってある。
五年前、今の住まいに引越してくる時、多くの荷物を処分する中で、そのカバンだけは迷うことなく 「はい、これはこっち!」 と引越しの荷物の方に入れた。

引越しの日以来、手にとって見たことがないので、どこかにあるはず・・・ という認識だが、その存在を忘れたことはない。
そういった意味では 『押入れのどこかに』と言うよりも、今では 『心の片隅に』 と言う方がふさわしいかもしれない。
心の片隅に在るので、いつでも取り出して見ることができる とも言える。

そのカバンの中には、高校の卒業文集と、友人や恩師からのメッセージが書かれたノートが入っている。
当時は、革の学生カバンのマチをつぶせるだけつぶし、ペッタンコにして持つのが流行っていて、例に洩れず私もそうしてカッコつけて持ったものだった。
教科書もほんの数冊しか入らないようなペッタンコ振りだが、今、私の心の片隅に在るこのカバンはマチを最大限に広げて、当時の想い出と、そこに共に有った私の思いをいっぱい詰めこんでいる。

自分とも他人とも闘いながら、泣いたり笑ったり、悩んだり苦しんだり・・・そしてそれらを糧にして大きく成長させてもらったあの頃の証しを、今、そこに見ることができる事が尚嬉しい。

 さて、我が家のタンスの引出しにもう一つ、想い出のカバンがしまってある。
めぐみに通う息子にと、二十五年前に私が手作りした通園カバンだ。
めぐみの通園バッグは、創立当初から母親の手作りを原則とし、寸法も決まっていて、今も同じ規格で変わらない。
あまり親切とは言い難い型紙を頼りに、悪戦苦闘してやっとの思いで仕上げたことを思い出す。

キルティング布で作ったそのカバンは、底の四隅が擦れて穴が開いている所もあるが、年期物の風格さえ感じさせる。
息子の物なのに何故か今では私の宝物として置いてある。
中身は空っぽ。
何も入っていないのに、これもまたパンパンに膨らむほど、見えない 『何か』 が入っていて、私はそれを目にする度、自分の心に向けて 『何か』 を確認している気がする。

息子も小学校の間は私と同じ様に、このカバンを見ては 『何か』 を確認している姿があった。
この 『何か』 が、息子と私、同じものであるかどうか…確かめた事がないので分からないが、敢えて言うなら、それぞれにとっての 『めぐみの心』 だろうと思う。
 
 入園したての花組さんの新しいカバンは,、大きく見えるのに軽そうだ。
そして、その傍らでお世話をする光組さんのカバンは、小さく見えるが、重みが感じられる。
光組さんは既に、カバンの中に見えない 『何か』 を詰め始めているのだろう。 
  
沢山の事柄や人々との関わりの中で、子ども達のカバンの中に、『何か』 を一つ、また一つと、ゆっくり増やしていって欲しいと願う。

 さて、おとなになった私の息子は、 『何か』 を確認する為にこのカバンを見ることは無くなった。
息子にとってめぐみの通園カバンは、わざわざ取り出して見なくても、心の片隅にちゃんと在って、
その 『何か』 は、確かめなくとも当然のものになっているような気がする。

                                             園 長 木村 厚美
『伴奏』


私は今、この四月のたよりの巻頭言をパソコンで打ちながら、今年卒園した光組さん達の歌に包まれている。
「聴いている」・・・ではなく「包まれている」・・・と言いたいのは、その歌声から何とも言いようのない優しさと温かさを、皮膚に感じるからだ。
この歌声は、三月十四日 の卒園式でのもの。 
参列者に向かって力いっぱい心を込めて歌っているその姿は、これまで受けてきた たくさんの愛に、全身全霊で応えているかのようで神々しかった。
そして成長した自分達のことを、自分達自らが心の底から喜び、胸を張って誇らしげで、自信と希望に満ちていた。

ここ二十数年間、一度も欠かさず卒園式でピアノを弾いてくださっていた、音楽の後藤先生がどうしても都合がつかず、今回だけは私が伴奏することになった。
どの曲もお帰りの集まりの時に、何度も繰り返し一緒に歌い、弾き慣れた曲だったが、『卒園式を最後に もうこのメンバーで歌うことはないんだ・・・』と思うと、最高の伴奏をしてやりたい! という思いに駆られ、毎日一生懸命練習した。
練習しながら、晴れの舞台できっと精一杯歌うに違いない子ども達の姿を想像すると、ミスは許されない! と緊張感が高まる。当日の式直前まで、どうしても満足に弾けない所に不安を残し、私はピアノの前をなかなか離れられなかった。
ハッタリ奏法(ごまかして弾くこと)を得意とする私にしてはこんなことも珍しい。

さて、式が始まって一曲目が終わり、二曲目… 三曲目…指の震えを感じて不安が走る。
さあ、四曲目、とうとう光組の歌『クラリネットをこわしちゃった』だ。
前奏は右手だけで しかも単音・・・簡単だが、私のテンポカウントの狂いは命取りとなるというもの。
砕身の注意を払ってカウントし、最後の四拍目の音を弾き終えた次の瞬間、寸分の狂いもなく歌声の一拍目が立ち上がった。
鳥肌が立つほど凄かった。最早うまく弾こうなんていう気はいささかもなくなり、ピアノが一緒に歌っている!という子ども達との一体感にゾクゾクっと、今度は心が震えてきた。
「私はこの子たちと三年間いつも一緒に居たのだ」という幸福感と充実感、そして誇りを感じた、気持の良い数分間だった。
そして残りの曲も全て満足だった。

伴奏の仕方には色々ある。
時にはメロディーをリードし、ある時は彼らのテンポに合わせたり、私のテンポに合わせさせたりもする。彼らを主役にすることもできれば、私が主役を張ることもできる。息がぴったり合う事もあったし、合わない事だってあった。
こうして三年間、ピアノを離れた所においても、彼らの傍で色々な意味での伴奏をさせてもらったことは、私にとって大きな恵だった。
そしてそこで得たものは、『子どもを信頼し、尊敬し、愛する心』だ。

もうこの先、卒園式で私が伴奏することはないだろうが、今日も明日も明後日も、『いつも子ども達の良き伴奏者で居られますように・・・ 』との祈りを胸に、この優しい歌に包まれて新年度の一歩を踏み出した。  


                                            園  長  木村  厚美
『 めぐみの 宝 』


第一園舎保育室のドアの横に、カウントダウン カレンダーが吊るしてある。
子ども達が降園してから『あと⒛日』から始まっているこのカレンダーをめくってみた。

B5版の用紙の どの日にも、カラーマジックで色鮮やかに思い思いの絵が描かれ、この先にどんな楽しい事が待っているのだろうと、めくる者をドキドキわくわくさせる。
一枚一枚の絵を楽しみながら『4』・『3』・『2』とめくっていくと、
最後に『そつえんしき』と書かれてある。

・・・そう、年長光組さんが自分達の手で作った、卒園までの登園日数を数える 日めくり式のカウントダウン カレンダーだ。
ここ数年、これも光組さんの卒園準備の一つとして恒例になっている。
私はその数字が、日毎一つ、また一つと減っていくのを見る度に、心がしぼんでいくような気がして寂しいのに、そのカレンダーの横を素通りできず、ちょっと足を止めて見てしまう。
見ているのは可愛い絵と数字だが、それを見ながら心に映し出されるのは、やっぱり、♪『君は愛されるため生まれた』を歌っている時の、光組さんの歌声と、眼差し。私の大好きな想い出の ワンシーンだ。
 
 光組最後の聖話の時間に、私は 『神のめぐみ 幼稚園』 と、画用紙に平仮名で書いたものを持って行き、「ここには神様の恵がたくさんあるんだよ」と説明した。
「神の『めぐみ』って何の事だと思う?」と問うと
『・・・?何となく分かるけど、言葉できちんと説明できんよ』 と言うような目で私を見ている。
「例えばそれは、神様からの贈り物、宝物のことなんよ。」と、そう説明して、
めぐみ幼稚園にはどんな宝があるだろうと、思いつくまま言わせてみた。
お仕事・くさり山・ジャングルジム・滑り台・・・等々、自分達の大好きな物が出尽くしたところで、私が導き出したかった、笑顔・友達・心・優しい気持ち・優しい言葉・・・というところへと思いが深まっていった。
それも出尽くして、さて、話をまとめていこうと思った時、新之助君が「僕たちが宝!」と叫んだ。 
私はハッ!とした。
彼は、心、言葉、気持ちなどの単語から、それをまとめて『僕達!』とひらめいたのだろう。
なんと適切で素敵な答えだろう。
私がまとめようとした話の中に、その単語を使う予定は無かった。
あれほど子ども達に 『あなた達は神様の宝なんだよ』 と繰り返し繰り返し言い続けているこの私が・・・不覚にも・・・と、穴が無くても掘って入りたかった。

確かに、めぐみ幼稚園の宝は子ども達自身である。めぐみ幼稚園を包んでいる、明るい笑顔、優しい心・気持ちも言葉も全てそれらは、子ども達の内に宿る善に憧れ平和を愛する心を、お互いに分かち合って創り出された宝物だからだ。
 
 聖話のいよいよ最後、光組の子ども達に「自分のことが好きな人」と訊ねた。
めぐみ幼稚園の誇る『平和教育』の目標の一つ、『自分の事を受け入れ、自分の事を素敵だと思えること』の最後の確認だ。
先月までその問いに答えられなかった数人の子も手を上げることができ、みんなで、お互いが お互いの宝である事を確認して、深い喜びに包まれて終わった。

『カウントダウン カレンダー』。
光組さんはその数字を一つ、また一つ 心に食べて、昨日より今日、今日よりも明日…と大きくなって、やがてここを巣立っていく。

                                  園 長  木村 厚美
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